昭和五十七年七月十一日 朝の御理解
御理解 第六十二節
「昔から人もよけれ我もよけれ人より我が尚よけれと云うて居る が神信心しても我身の上のおかげを受けて後に人を助けてやれ 神信心も手習も同じ事一段一段進んで行くのぢゃ俄に先生には なれぬぞ」
人を助けてやれという前に、自分自身の助かりを願わなければならん。人より我は尚よけれ、とこう云われます。まず自分自身が助かる、と。助かるという事は、神様をやはり信ずるという事でしょう。信心と云いますから、ね、信ずる心と書いて信心。同時にお道の信心では取次の働き。いわゆる取次者を信ずるという事。 けれども、その取次者を信ずると言うても、神を信ずると言うても、やはり、自分自身の、ま、祈りを信ずるという事になりましょうかね。
自分自身の祈りを信ずるという、そこに、自分の助かりというものを私は感じます、ね。一生懸命、取次を願っておる、御祈念をさして頂いておる、の事であるから、ね。そこに出て来る、ま、形の事は様々でしょうけれども、ね、神様におねがいをしての事だから、ま、兎に角、おかげの方にしかなっていない、と。ま、例えて言う ならば、思えれるときにあなたはもう助かっておると言えると思う ですね。お願いしとるばってんどうぢゃろかというものぢゃなくて、だからまあ、そこは、結果が右、左は別としてお取次を頂いて、お願いをしてあっての事であるから、ね。神様の、いわゆる、おかげの方にしかならんというような心が開けてくる時に、あなたは助かった。助かっておるという事になるのぢゃないでしょうか。
どんな難儀な問題を、例えば持っておりましても、ね、一生懸命修行もさしてもらう、または、お取次も頂く、ね、そこに神様を信じれれる、まず、我身におかげを受けて、まず自分自身が助かって、そして後に人を助けてやれと、信心も手習も同じ事。一段一段と、こ、おかげを頂いていく。始めから俄に先生にはなれないと仰るように、そういう信心の、ま、実績というか、ま、おかげを積み重ねていきながら、いよいよ神様を信ずる事が出け、お取次の働きを、または、親先生を信ずる事が出来るようになってくる。
昨日、一昨日でしたか、久留米の石田先生、朝の御祈念にお参りになってなかったんでしょうか、昼、丁度、研修前に参って見えられ、御承知のように、なかなか非常に、もう、私共でもわからないように、いわゆる宗教についての、いろいろ勉強をしておられます。
お医者さんですけれどもね、ま、最近、ここ何回か、合楽便りの苦茶無茶欄を担当して頂いて書いておられる。実に、その、深いものを持っておらなければ、ああいう文章にもならないと思うです。
非常に、いわゆる詳しいです、信心の事が。そして、たまたま合楽に御縁をいただいて、ま、自分がこれから、いよいよ傾倒していけれる宗教は、金光教だ、合楽だというふうに、こ、段々傾倒していかれるわけです。
御夫婦とも熱心です、ね。ですから、どうでも一つ、その、お子さん達にも、やっぱ、お医者をなさっておられますから、あの、合楽の信心をわからせたいと、ま、親の情として思われ願われる。
最近、御子息、身体を悪くしておられる、ね、ま、いろいろ信心の話をなさるけれども、それが、ま、はかばかしくない、と。子供があれやこれやと迷いますというお届けであった。それで、私は申しました。もう、親が子供の事を願うという事は、こんな切実な事はないのですから、切実の思いで子供の事を願っておられるのですから、ね。
“吉野山 踏み迷うても 花の中”という句がありますよね、と云うて、ま、お話をした事でした、ね。
吉野山 踏み迷うても 花の中である。結果はどういうふうに迷う事もおかげ、信心しない事もおかげ、する事もおかげ。結局、親が子の事を願う切実心を、神様が聞き届けて下さらんはずはないと確信する。
自分の祈りに自身をもて、自分の祈りに一つの確信的なものが、段々出来てくるという。だから、願った通り、なる、ならんは別として、ね、親の祈りの中にあるのだ、ま、大きく云ゃ、親先生の祈りの圏内の中にあっておる事であるからと云うのです。たとえ、よし子供が迷っておる様を見ても、その迷いそのものも、やはり、ね、花の中だよというわけなんです。
私は、信心させて頂いて自分が助かるという事は、自分の祈りを、 いよいよ信じれれる、ね。自分の祈りに確信がもてる、ね。そこで、私は思うんですけれども、自分の祈りに確信を持つという事が、これは、自分が本気で神様へ心を向けておらなければ生まれてこんですね。自分が本気で、ま、例えば、本気でその御理念に取り組んでおる、本気で朝参りをさして頂いておる、本気で一生懸命の御祈念を日夜かがした事はない、といったような修行がです、ね、いわゆる信行なんです。信心の行き方が出来ておりませんと、も、やはり自分の祈りというものが、弱いものになってくるし、また、確信も生まれてこないと思うんです、ね。
お互いの信心、いわゆる、信心とは神様を信ずるという事。また、取次者を信ずるという事だけれども、その信ずるということも、自分自身の祈りを信じれれるようにならなければ、本当の神様は信じられないと思う、ね。本当に神様を信じれれる、取次の働きを信じれれる、ね、お取次を頂いて起きてくる事、良い事、悪い事、みんなよいと確信出来れれる信心。
お取次を頂かずしておきてくる事、良い事、悪い事みな悪いといったような、まあ、一つの確信です、ね。
自分の願いが自分の思うようになるといったような意味ではないです、ね。神様の願いが、ま、成就するというか、ね、神様にお願いしての事であるから、ね、良い方にしかお働きは頂かないんだ、という確信が出来るようになった時に、私はお道の信心によって、いわば、もう助かった。なら、助かるという事においては限りがない事ですけれども、ね。そこまでは一つ、こう、一線上に出たい、ね。そこから限りない信心を、いよいよ、それこそ俄に先生にはなれんのですから、一段一段と信心、手習いと同じ事。自分の信心の階段をおうて信心をすすめていきたいと思います。
自分の信心に、自分の祈りに、いうなら、確信をもってといったような事を、今日は聞いて頂きました。
「 どうぞ 」